ぶらりふらり/上野(1)

 ◆父といた あの日の聚楽台 大学入学のため、秋田の親元を離れて上京し降り立ったのが、国鉄の上野駅。まだ秋田新幹線はなく、深夜急行に乗り、早朝に到着。当座の「生活費」という名のお金を握りしめながらの第一歩だった。 あれから30年以上。何度となく訪れてはいたが、当時の思い出を求めて、改めて歩いた。 不忍口を出ると、ガラス張りのビルが冬の光を反射させる。「UENO3153」。そう読むのだろうと想像していたが、やはり「上野西郷さん」だった。 同じ場所には以前、西郷会館(上野百貨店)があった。上京当時、1階には「東京」と書かれた提灯(ちょうちん)やペナントといった東京みやげの店や薬局があった。すぐ横の上野公園に向かう階段そばには、似顔絵を描くベレー帽のおじさんがいた。偽造のテレホンカードを売る外国人もうろついていたのを覚えている。 携帯電話が個人に普及していなかった時代だ。田舎から出張で上京する父親の留守電のメッセージの「上野で2時」は、「西郷隆盛像の前に午後2時集合」を意味していた。 東京には違和感のある防寒ブーツ姿の父親と落ち合い、会館のレストラン「聚楽台」に向かった。ガラス越しにメニューサンプルが並ぶ。そこでの食事が定番だった。垂直に近い背もたれの席に座り、生ビールに刺し身の父と、ハンバーグの私。男同士、会話は弾まないのだが、周りの席から聞こえる地方のお国訛(なま)りが気持ちを落ち着かせてくれた。別れ際、聚楽台の紙ナプキンにくるんだ小遣いを父から受け取っていた。 年に1度の父の上京は聚楽台で続き、やがて、私のメニューにビールが加わる一方で、会話から東北訛りは減っていった。 社会人となり東京を離れると、上野から足が遠のいた。いつだったか、ふと「親父は本当に出張だったのだろうか」と考えたことがある。その時にはすでに父は鬼籍に入っていて、確認する術(すべ)はなかった。 もう一つ、上野には思い出がある。同郷の友と一緒にアメ横を訪れた20歳ごろだった。 「お兄さんたち、いい体格しているねえ。何かスポーツをしているの?」 笑顔で話しかけてきた男性は「自衛隊に興味はありませんか。食事をしながら話を聞いてみませんか」と続けた。その時に誘われたのが聚楽台だったが、大学生活の真っただ中だったこともあり、遠慮を告げた。 昨年末のアメ横。センタービルの大型ビジョンに自衛官募集の映像が流れるのを見て、思い出した。 西郷会館は老朽化で2008年に取り壊され、聚楽台もなくなった。UENO3153は12年にオープン。ファストフード、パンダのパン、焼き肉など、どの店舗も混雑していた。 成田空港行きのある京成上野駅が近いことから、キャリーバッグを持つ旅行客も多い。ハンバーガーをほおばりながら、周りから聞こえてきたのは、ほとんどが外国語だった。新幹線の発着が東京駅になり、地方への玄関口としての上野駅の役割も薄れている。理解はしていたが、時の流れを実感した瞬間だった。 (佐々木健)